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2016年06月22日

和を以て貴しとなす

「和を以て貴しとなす」と仏教の教えにありますが現実はなかなか厳しいものがあります。(正確に言えば聖徳太子の言葉です)

先日、久住のミヤマキリシマを観に扇ケ鼻を登山中に携帯の電話が鳴った。鏡派出所からの電話だった。
鏡山の常照院の石仏を移動させたことで苦情が出ているということだった。登山中でもあることから、すぐの対応ができないことから翌々日の日曜日に私が派出所に出向き事情を説明することになった

日曜日に派出所に出かけ、移動は常照院の現在の代表者Hさんの同意書を入手し移動しているので問題のないことを説明した。警察の方は納得してくれたので、その場でクレイマーのHoさんにその場から電話をしたところ、丁度Hoさんが派出所に出向いて来たところだった。

Hoさんは常照院の元住職で今は亡くなれているHDさんの遠縁の方(プライバシーの問題もあり詳しくは書かない)で、Hさん(HDさんの奥さん)の終活のため今後の常照院の後始末(?失礼)で動かれている人です。

これまでに一度だけお会いしたことがあり、鏡山へんろ同行会の活動と石仏の移動のお話もしたことがあります。その時は今、常照院のことで動いているので移動の話はその後にしてくれということでした。2~3ケ月後その後の進展がないため、Hさんの同意書を取ろうとHoさんに電話したのですが、応答がなかったという経緯があります。

派出所に出向いた日の話に戻しますが、Hoさんが同意書のコピーをくれというのですぐにコピーをとりその日のうちに渡しました。
石仏の移動の問題は常照院と私との問題であり、第3者であるHoさんは法的には全く関係ありません。(HDさんの財産ではない)
石仏の所有権は常照院にあります。このことから同意書のコピーの渡しを拒否できるのですが、関係者の方にはできるだけの理解を得たいという気持ちからコピーを渡しました。

翌日、携帯に電話がかかってきて、鏡山頂上の住民たちと、この件で協議しているとのことでした。移動問題が地域コミュニティの問題にまで拡大していました。その電話でその住民の方からいろいろを文句を言われたので、遂に私も切れてしまい、この問題は常照院と私との問題であり、第3者は口をだすなということを言ってしましました。それで必要以上の大問題となったわけです(汗)

その協議の場で「今も石仏を拝みに来ている人がいるので、移動の周知と私の連絡先を書いたものを石仏に置くこと」という妥協案が出たそうです。この拝みに来ている人は檀家さんとは限らす、全く関係のない人もいます(事実そんな人に会ったことがあり)。法的に重要なのは常照院の意思決定組織(役員会等)の意見、判断ですがそんな組織はもう消滅しているのが現実です。
この辺りの事情は考慮すべきと私も判断したので、この意見を受け入れ、昨日早速連絡板を石仏に設置してきました。

和を以て貴しとなす

和を以て貴しとなす

こういう問題は当事者間だけの問題ではなく、地域コミュニティの問題にもなるのだなぁと私も深く反省し、昨日は関係者一軒一軒、と言っても3軒ですが、訪問して謝罪し、この問題はひとまず落ち着きました。

私も役所的な発想、思いだけで動いてしまい、大いに反省しました。できるだけ相手の意をくみ取って行動していたつもりですが、結果的には不十分だったようです。

和をもって貴しとなす 話せばわかるということではありませんが、お互いの歩み寄り、和は大事ですね。

関係者の皆さんには謝罪はしましたが、この件に関する私の考え、意見は十分伝えていません。
もしこのブログを読んでいらっしゃるならご理解のほどをよろしくお願いします。


【事前の知識】
昭和2年に唐津四国88か所の第31番札所として常吉太郎氏が文殊菩薩を設置したのが始まりで、昭和14年文殊堂を建設、53体の石仏を新調したとあります。鏡山を巡るへんろ道を創設するのが氏の夢で、その夢半ば昭和22年に氏は亡くなります。その意志を受け継いで昭和26年常照院初代住職、米倉経常氏を中心に新鏡山88か所大巡りが創設されました。

現在第5番から52番までが当時の状態で鏡山東側に残っています。しかしながら高齢化によりそのへんろ道を参拝できなくなった信者さんが6体の石仏を常照院に移動させています。(昭和40年代後半から50年代と思われます)

平成27年、鏡山へんろ道整備、保存を目的とする市民社会組織鏡山へんろ同行会が結成され、現在活動を行っています。

【同意書入手を急いだ理由】
今「寺院消滅」ということが社会問題となっており、後20年ほどしたら現在の寺院の40%程度が消失するそうです。それは信者の高齢化と檀家の減少、後継者不足等が原因です。寺院を解散するにしても意思決定組織のメンバー自体が所在不明で、解散しようにも解散できないような状況が日本各地に発生しています。

私も鏡山へんろの調査を開始し、当時の関係者を1年以上かけて調査しましたが、その間に見つかったのは1人だけで、その方も93歳で記憶もままならないという状況でした。

常照院も今まさにその状況に置かれており、早急に元はへんろ道にあり、今は常照院にある石仏6体等をへんろ道に戻さないとその移動できる時期を失してしまう恐れがあります。

最悪のパターンを考えると、常照院消滅し、土地は県の所有地なのである時期がくれば(予算がついた時)県は土地を更地にします。残った神社の財産は競売にかけられる可能性もあります。(今は官公庁もネットオークションで競売に参加しています。石仏はネットオークションで買い手がいます)それまでに、寺は荒廃すると放置された石仏は盗難にあう可能性が高くなります。事実、私の調査でもすでに2体は盗難にあっている節があります。

この石仏群が離散するのは絶対に避けなくてはならない、というのが私たちの強い願いです。最低限でも第5番~52番までは守りたいという強い願いです。

石仏は誰のものかという所有権の話になると、昭和26年の石碑に常照院に寄贈したことが記載されていることから、その所有権は常照院にあります。移動は正式には意思決定組織(役員会など)の承認が必要ですが、その組織が消滅している以上、現在の代表者であるHさんの同意を得て(存命中に)移動するしか、もう時間も方法もないのです。

今動かないと、間違いなく石仏は離散する。それは絶対に避けなければならないという強い信念があります。

【現在の信者さんについて】
今回Hoさんが強く移動を反対している理由は、今もなおお参りしている信者さんの気持ちを思いやってのことだと思います。
その気持ちは私にもよくわかります。(おそらくその信者さんは檀家である人は少ないと思います)

諸行無常、その信者さんも高齢化の為、年々減少するのは必至です。仏さまもこれら数人の人に崇められるより、へんろ道に戻り、多くの人々から関心を持たれる方が喜ばれるのではないでしょうか?

私は今、民泊の中学生や月に1回無料ガイドをして一般市民の方とへんろトレッキングをしています。近いうちには地元の鏡山小学校にもトレッキングの話をして、情操教育にも活かせないかと考えています。

新鏡山88か所の興隆に尽力があった故日高三嘉氏もどちらの道を望まれるでしょうか。今の事だけを考えるより、将来のことを考え、へんろ道に石仏を戻すことに賛成してくれるのではないでしょうか?(Hさんには、この移動は手を合わせてもらうぐらい感謝されています。)

石仏の意味】
常照院に存在するだけならどこにでもあるただの石仏です。しかしそれが鏡山へんろ道に存在することで価値は一変すると私は思っています。このへんろ道は熊野古道小辺路にある33観音の道にも負けないくらいの素晴らしい道です。この道に当初のままで石仏が存在する事で唐津の歴史遺産になるといっても過言ではないでしょう。

この石仏は一信者さんのものではなく、唐津の歴史遺産だと私は思っています。

最後になりますが、今は5~52番までの整備しか力が及びませんが、これからの活動で唐津市民の皆様のご理解が得られば88か所を復元する夢を持っています。

どうぞ、この熱い思いを受け取っていただき、ご協力、ご理解をお願いします。





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