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2016年02月23日

空海の嘘

ちょっとショッキングなタイトルをつけてしまいました。適切な言葉が見当たらず、こんなタイトルをつけました。

これから書くことは、私の私見であり、きちんとした根拠に基づくものではありません。そもそも歴史に書かれていることは、よくわからないことばかりで、よく言われる「言ったもん勝ち」という世界がまかり通っているものなのです。

一番わかりやすい例でいうと「魏志倭人伝」。これは事実と嘘が混在しており、そのため今日でも邪馬台国所在地の近畿説、九州説の論争が続いていることは周知のことです。文献となっているもの中には、時の権力者等の思惑や都合により事実ではなく巧みに虚偽が書かれていることがあります。また、大した根拠もなく書かれている文書が他に比較することができないという理由だけで十分な考察がなされず(考察ができず) 文献として生きている(使われている)事例が多々あるようです。

ちょっと前置きが長くなりましたが結論をいいます。
空海が唐から帰朝する際、朝廷に「御請来目録」を提出し、その中で無断帰朝の理由として「日本に早く帰って密教を広めなさい」という師恵果の遺言のことを書いていますが、これは空海が自分の独断を正当化するための作り話(嘘)なのではないか、ということです。

なぜ、こんなことを思ったかという話を少し。

司馬遼太郎の歴史小説「空海の風景」を読んだとき、ある違和感を覚えました。その違和感とは
①空海はサッカーでいうとJリーグからセリエAやプレミアリーグに行ったようなものです。野球でいうと日本のプロ野球から大リーグへ、そんな状況だったと言えます。唐といえば、当時世界でも有数の大都市、ここで20年間も学べるということは、当初は夢のような出来事だったと思います。また機会があれば仏教発祥の地、釈迦の誕生地インドにも訪れたかったに違いありません。それなのに、在唐わすか2年で独断で帰朝します。

空海は20年間滞在の命令で唐に勉学に来た留学僧です。それを独断で帰朝するということは、当時は「闕期(けつご・けっき)」の罪という死罪にも相当する大罪でした。それに帰りの船旅にしてもとても危険な航海です。入唐にあたっても4舟中2舟しか渡海できず、しかも難破して福建省に漂着したわけですから。そんなことを考えると、空海は帰朝の決断にはかなり悩んだものと覆われます。それなのに小説ではその心の葛藤や心理描写がないので、そのあたりに違和感を覚えたわけです。後で思えば司馬遼太郎の小説は歴史小説というジャンルであり、心理描写をする作家ではないので当然のことなのですが。

②師恵果が「早く日本に帰って、密教を普及しなさい」という遺言にも違和感を覚えました。密教の胎蔵界、金剛界の両部を相承したのは1000人もいたといわれる恵果の弟子の中で空海と義明の二人だけです。義明は体が弱く、長生きはしていません。恵果は密教の正統が代々受け継ぐ8種の法具を空海に授与します。これは空海があと20年間も在唐するから授与したものであり、すぐに日本に帰るなら、空海ではなく義明に与えるはずでは、と思いました。当時の唐は世界最大の都市であり、東国の辺境日本ではなく、唐での密教興隆を願ったのが恵果の自然な気持ちだったと思います。唐の国教は道教であり、かつては唐の皇帝の崇拝も集めた仏教でしたが、この頃には道教に押され、貴族間で信仰されてはいたが、一般民衆の宗教ではなかった。恵果は唐での密教の再起興隆を空海に託したのではないのか、という思いがします。

恵果の遺言とはどういうものなのか、どういう形で後世に伝えられているのか、とても気になっていました。

最近、高村薫著の「空海」という本を読み、自分の頭の中が整理できました。
「日本に早く帰れ密教を広めよ」という恵果のの遺言は空海が自分が唐から持ち帰った経典や仏具等の品々を記録した御請来目録の中で早期帰国した理由を伝える上奏文として書かれていたのです。つまり、恵果の遺言は、目録の中で空海が書いたものだった。

しかも、この本にはこうも書かれていました。
「前後して書かれた恵果の碑文には、恵果入滅の当夜、空海の夢枕に立った恵果が、おまえは早く日本に帰れと空海を急がしたという挿話も記されいる。これも、帰国に向けた入念な布石の一つだったろう。(P63)」と。

恵果の遺言内容は怪しく、遺言自体があったかどうかも疑わしいと思えます。「後のことはよろしく頼む」というぐらいの遺言はあったかもしれないが、「早く日本に帰れ」という遺言は無かったのではないか。「この地で密教をさらに広めてくれ」という遺言なら理解できるが。

帰朝の年の空海の状況を時系列に見てみよう。
805年5月 空海、師恵果と会う
同6月  胎蔵界の灌頂をうける
同7月  金剛界の灌頂をうける
同8月  阿闍梨の灌頂を受ける
同12月15日  恵果入滅
805年12月末または806年1月  遣唐使高階遠成長安に入京
高階遠成に帰国申請(性霊集)「本国の使に与へて共に帰らんと請ふ啓」

驚異的なスピードですべての密教の正統を受けついだ空海は、恐らくこの辺りから帰国のことが少し頭を過り始めたのではないだろうか?
もうこの国に留まるべき理由が空海には無くなっていたからである。空海は人智を超えた大天才である。入唐一年半で、この国の全てを観たのだと思う。

そんな時に唐で張り巡らした空海のアンテナに高階遠成の入唐の情報を得る。今後遣唐使がいつ来るのかもわからない、廃止になるかもわからない。そう思えば、危険を冒しても日本に帰りたいという気持ちがふつふつと沸き起こったのであろう。
恵果の入滅の頃には、空海は帰国を固く決心していた。

だからこそ、恵果の碑文に「日本に早く帰れ」という恵果の遺言を書いた。それは、(創作であり)帰国に向けた入念な布石だった。

ひょっとすると、恵果は日本ではなく「唐で密教を広めよ」と遺言したのかもしれない。仮にそうであるなら、空海は口が裂けてもそれは言うまい。日本に早く帰る理由の後押しとして、師の遺言が必要だったのだ。密教により国を安寧にし、人々を救済したいという大志は空海だけの意思ではなく、師の恵果の意思でもあるのだと強く朝廷に訴えたかったのだと考えれば、私にはすべてが納得がいく。

空海という大天才は、大変な戦略家だと私は思っている。
上陸拒否の窮地を救い、入唐を実現させた四六駢儷体の名文といい、入唐時の行動などをみると相当な戦略家である。
最澄が南都六宗と険悪な状態になったが、空海はうまく回避している。
空海の行動そのものが、入念に計算された類まれなる戦略家だと思わざるを得ない。だからこそ大天才なのだと思う。


どうでしたでしょうか、空海は御請来目録を捏造したという新説は?
信じる者は騙される。まずは何でも疑いましょう。それは大事な人間の基本的な姿勢だと思います。

過ちをするのが人間ですから。

空海の嘘



Posted by あわ美くん at 16:08│Comments(0)注目記事
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