そして僕は途方に暮れる!
先日、鏡山へんろ道の表示板のいくつかを設置に遍路道を歩きました。
文殊堂(これまで文珠寺と呼んでいた)跡周辺にある第17番から19番のルートは雑草がよく繁り表示板が見えづらくなりそうなので、石段上に新しいルートを作ろうと、朽ち果てた大木を除去した時、この石碑が読める状態となりました。
この石碑の存在は気づいていたのですが、他の2つの石碑が寄付金の寄贈者氏名等の内容だったので、これもその類の石碑だろうと思い、気にかけていませんでした。
苔むした石碑をきれいにすると、新たな事実が判明しました。
書かれていることを判読すると
常吉太郎氏は、昭和2年に唐津新四国第31番札所文殊菩薩を安置し、昭和4年に訪問してくれた野僧に鏡山88か所の悲願を語り、昭和14年文殊堂を建設、仏像53体を
新調安置したとある。太平洋戦争により活動を一時中断、昭和20年病床に伏せ22年に他界している。その遺徳を偲び、関係者が意志を継いで昭和26年3月28日(鏡山新四国88か所)御開山式を挙行したと書いてあった。
しかし、昭和2年大聖院発行の唐津四国札所案内図絵(昭和2年発行)によると「鏡山文殊堂あり。・・・・・・山上には常吉太郎氏の創設鏡山八十八ヶ所あり。」と書かれている。
昭和2年の文殊堂は文殊菩薩像を風雨から守った小さな祠のようなもので、設置場所は旧鏡山稲荷神社跡(現在のとにかく岩がある場所)であったことは疑いがない。これまで私が昭和2年の文殊堂と区別するため文珠寺と呼んでいた寺は正式には文殊堂と呼ばれていて昭和14年に建設されたことがわかった。
問題は、昭和2年当時の鏡山四国88か所はどのような形態であったのかということである。今回の石碑の判読により少なくとも完成はしていない、建設途中であったことが窺われる。
昭和14年に仏像53体を新調安置したともある。53体新調したということは、すでに53体以上は既に存在していたと考えられる。そう考えると昭和2年の88か所は現在の石仏より簡素なもので、完全な形態をとっていなかったことが考えられる。
いづれにしろ、これまで昭和初期の鏡山四国88か所については明らかにしたと思っていたが、実はまだよくわかっていないことがわかった。
昭和初期のへんろルートは標高230m付近を鏡山一周していたと思われるが、昭和26年のへんろルートははっきりしていない。
証言者もほとんどいないことから、今後の調査の進展は期待できないが、これまでの資料を整理し、昨年発表した「鏡山遍路考」を「新鏡山遍路考」として再検証したいと考えている。
余談ですが、新事実や新資料が出てこないと、これまでの石碑やパンフレットに書かれている文章の解釈の問題が重要になってきます。文章は難しい。議会答弁を作るとき「ああでもない、こうでもない」一言一句、とてつもないエネルギーと注意を払いますが、今になってその重要さが解ってきました(笑)
そして、僕は途方に暮れる。
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