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2018年03月17日

クラウドファンディング開始

まず初めに、このブログランキングが31731中174位にランクしています。2年近くも放置していてこの結果です。
時代はTwitter、FB、インスタ、LINEに移り。ブログは人気がなくなったのでしょうか?
でも、ブログにはブログの良さがあり、皆さんはそれを使い分けているのかもしれませんね。

さて、CAMFIREでプロジェクトを開設しました。



プロジェクト名は「将来はセグウエイでお遍路ができるへんろ道をつくりたい」です。
クラウドファンディングは若者が主体にやっていると思われるので、ちょっと注目を集めるような言葉をあえて使いました。

この言葉で鏡山関係者には誤解をまねく恐れがあります。プロジェクトの中でも書いていますが、私が生きている間にはこの計画は実現しないと思います。このような気概を意識をもって活動に取り組んでいるという心意気です。

プロジェクトのアドレスは
https://camp-fire.jp/projects/view/63840 

Glamping Cafe 3/16の利用券を中心にしたリターンですがパトロンにはお得な利用になります。
最近、airbnbにと登録したのですが、ここから利用するとairbnbのサービス料、消費税が必要となります。
また、電話、メールで直接予約を申し込むと消費税が必要です。

しかし、このプロジェクトのパトロンになると消費税が不要でお得です。
皆さん、ぜひご利用ください。



  

Posted by あわ美くん at 10:43Comments(0)その他

2018年02月26日

久々に登場 CFします。

前回登場が2016年8月だから1年半ぶりの登場です。
投稿がFB、インスタに移行し、HPも「Glamping Cafe 3/16」「鏡山へんろトレッキング」と他に2つあることから、なかなかこのブログまで手を伸ばせずに今日に至りました。

今回、再登場の理由は、3月に入ってクラウドファンディングをするから、そのPRのため。
FBでは、ぼちぼちCFの投稿をしているのですが、FBの世界は狭いなぁと最近思っています。

CFは「キャンプファイヤー」という会社にお世話になる予定で、現在作成中です。
詳細は公表までお待ちください(笑)

ここ数年、唐津市観光協会が行っている民泊事業をやっており、年間20組(1組4人)近い都市圏の中学生を1泊2日であづかるわけですが、その時必ずこの質問をします。

「四国88箇所」「へんろ」という言葉を知っているか?という質問です。8~9割が知りませんね。知っているのは関西の中学生。関東の中学生はほとんど知らないですね。鏡山へんろ道保存会としては、これは由々しき大問題。

以前、笹栗にある若杉山に登ったとき奥の院というお寺に寄りました。そこで売店の方から聞いた話ですが最近の親子連れの登山客で仏様の前を素通りする人が増えたきたそうです。これには、驚きました。

お寺の外ならわかりますが、建物内を通過する時、無言で通過するというのは問題ありと私は思います。いつからこのな世の中になったのか?核家族化が進み、都会に住む人にはお仏壇もなく、日常生活で手を合わすという機会が減少しているのが原因ではないかと思っています。

そういう意味では鏡山へんろトレッキングは、手を合わす、合わさないは自由ですが、自然と手をあわさないではいられないそんな場所です。スタートとエンドは合掌を強制させていますが(笑)。

CFの話から、少し飛んでしましました。CFはまだ準備中で詳細は追ってご連絡申し上げます。







  

Posted by あわ美くん at 12:39Comments(0)その他

2016年08月10日

雨の日もアウトドアLOVE 

雨の日もアウトドアで過ごしたい。ウッドデッキで過ごしたい。この思いが日増しに強くなり、ついにポリカの屋根を作ることにしました。

この場所は、標高70mの見晴らしの良い場所なので、台風が怖くて、これまではコールマンのタープを張って、雨をしのいでいました。簡単にターフやシェードが取り外しできるように工夫していたのですが、高さがあるので雨の侵入がなかなか防げませんでした。


丸管で作った構造物を撤去します。



一人で作業するため、丸管を吊り下げたりして作業には一工夫必要です。




丸管の柱は土台の丸管と接続するため、デッキに丸管を通す穴を開けます。


準備ができたら、ホームセンターで材料を調達。貸しトラックで搬入。



一人で柱を建てるのは大変だなぁと思っていたら、福岡のFBフレンドののkさんが泊りがけで手伝いに来てくれました。
おかげで、スムースに柱を建てることができました。感謝、感謝。



8ftと10ftの2×4の材木を、タルギに使いました。間隔は約60cm.


ここで軒下がないことに気づく。やり直しは面倒だからこのまま行こうかと思い悩みましたが、結局はやり直すことに。


台風対策もあり、最小限の軒下を確保しました。
風が通り抜けるように、トレーラハウス側には隙間を開けています。南風の時はその隙間から雨が入る可能性もありますが、台風対策を優先しました。



現在の状況です。まだ1/2残っています。

炎天下の中、コツコツと作業をしています。
  


Posted by あわ美くん at 07:30Comments(0)DIY

2016年06月22日

和を以て貴しとなす

「和を以て貴しとなす」と仏教の教えにありますが現実はなかなか厳しいものがあります。(正確に言えば聖徳太子の言葉です)

先日、久住のミヤマキリシマを観に扇ケ鼻を登山中に携帯の電話が鳴った。鏡派出所からの電話だった。
鏡山の常照院の石仏を移動させたことで苦情が出ているということだった。登山中でもあることから、すぐの対応ができないことから翌々日の日曜日に私が派出所に出向き事情を説明することになった

日曜日に派出所に出かけ、移動は常照院の現在の代表者Hさんの同意書を入手し移動しているので問題のないことを説明した。警察の方は納得してくれたので、その場でクレイマーのHoさんにその場から電話をしたところ、丁度Hoさんが派出所に出向いて来たところだった。

Hoさんは常照院の元住職で今は亡くなれているHDさんの遠縁の方(プライバシーの問題もあり詳しくは書かない)で、Hさん(HDさんの奥さん)の終活のため今後の常照院の後始末(?失礼)で動かれている人です。

これまでに一度だけお会いしたことがあり、鏡山へんろ同行会の活動と石仏の移動のお話もしたことがあります。その時は今、常照院のことで動いているので移動の話はその後にしてくれということでした。2~3ケ月後その後の進展がないため、Hさんの同意書を取ろうとHoさんに電話したのですが、応答がなかったという経緯があります。

派出所に出向いた日の話に戻しますが、Hoさんが同意書のコピーをくれというのですぐにコピーをとりその日のうちに渡しました。
石仏の移動の問題は常照院と私との問題であり、第3者であるHoさんは法的には全く関係ありません。(HDさんの財産ではない)
石仏の所有権は常照院にあります。このことから同意書のコピーの渡しを拒否できるのですが、関係者の方にはできるだけの理解を得たいという気持ちからコピーを渡しました。

翌日、携帯に電話がかかってきて、鏡山頂上の住民たちと、この件で協議しているとのことでした。移動問題が地域コミュニティの問題にまで拡大していました。その電話でその住民の方からいろいろを文句を言われたので、遂に私も切れてしまい、この問題は常照院と私との問題であり、第3者は口をだすなということを言ってしましました。それで必要以上の大問題となったわけです(汗)

その協議の場で「今も石仏を拝みに来ている人がいるので、移動の周知と私の連絡先を書いたものを石仏に置くこと」という妥協案が出たそうです。この拝みに来ている人は檀家さんとは限らす、全く関係のない人もいます(事実そんな人に会ったことがあり)。法的に重要なのは常照院の意思決定組織(役員会等)の意見、判断ですがそんな組織はもう消滅しているのが現実です。
この辺りの事情は考慮すべきと私も判断したので、この意見を受け入れ、昨日早速連絡板を石仏に設置してきました。





こういう問題は当事者間だけの問題ではなく、地域コミュニティの問題にもなるのだなぁと私も深く反省し、昨日は関係者一軒一軒、と言っても3軒ですが、訪問して謝罪し、この問題はひとまず落ち着きました。

私も役所的な発想、思いだけで動いてしまい、大いに反省しました。できるだけ相手の意をくみ取って行動していたつもりですが、結果的には不十分だったようです。

和をもって貴しとなす 話せばわかるということではありませんが、お互いの歩み寄り、和は大事ですね。

関係者の皆さんには謝罪はしましたが、この件に関する私の考え、意見は十分伝えていません。
もしこのブログを読んでいらっしゃるならご理解のほどをよろしくお願いします。


【事前の知識】
昭和2年に唐津四国88か所の第31番札所として常吉太郎氏が文殊菩薩を設置したのが始まりで、昭和14年文殊堂を建設、53体の石仏を新調したとあります。鏡山を巡るへんろ道を創設するのが氏の夢で、その夢半ば昭和22年に氏は亡くなります。その意志を受け継いで昭和26年常照院初代住職、米倉経常氏を中心に新鏡山88か所大巡りが創設されました。

現在第5番から52番までが当時の状態で鏡山東側に残っています。しかしながら高齢化によりそのへんろ道を参拝できなくなった信者さんが6体の石仏を常照院に移動させています。(昭和40年代後半から50年代と思われます)

平成27年、鏡山へんろ道整備、保存を目的とする市民社会組織鏡山へんろ同行会が結成され、現在活動を行っています。

【同意書入手を急いだ理由】
今「寺院消滅」ということが社会問題となっており、後20年ほどしたら現在の寺院の40%程度が消失するそうです。それは信者の高齢化と檀家の減少、後継者不足等が原因です。寺院を解散するにしても意思決定組織のメンバー自体が所在不明で、解散しようにも解散できないような状況が日本各地に発生しています。

私も鏡山へんろの調査を開始し、当時の関係者を1年以上かけて調査しましたが、その間に見つかったのは1人だけで、その方も93歳で記憶もままならないという状況でした。

常照院も今まさにその状況に置かれており、早急に元はへんろ道にあり、今は常照院にある石仏6体等をへんろ道に戻さないとその移動できる時期を失してしまう恐れがあります。

最悪のパターンを考えると、常照院消滅し、土地は県の所有地なのである時期がくれば(予算がついた時)県は土地を更地にします。残った神社の財産は競売にかけられる可能性もあります。(今は官公庁もネットオークションで競売に参加しています。石仏はネットオークションで買い手がいます)それまでに、寺は荒廃すると放置された石仏は盗難にあう可能性が高くなります。事実、私の調査でもすでに2体は盗難にあっている節があります。

この石仏群が離散するのは絶対に避けなくてはならない、というのが私たちの強い願いです。最低限でも第5番~52番までは守りたいという強い願いです。

石仏は誰のものかという所有権の話になると、昭和26年の石碑に常照院に寄贈したことが記載されていることから、その所有権は常照院にあります。移動は正式には意思決定組織(役員会など)の承認が必要ですが、その組織が消滅している以上、現在の代表者であるHさんの同意を得て(存命中に)移動するしか、もう時間も方法もないのです。

今動かないと、間違いなく石仏は離散する。それは絶対に避けなければならないという強い信念があります。

【現在の信者さんについて】
今回Hoさんが強く移動を反対している理由は、今もなおお参りしている信者さんの気持ちを思いやってのことだと思います。
その気持ちは私にもよくわかります。(おそらくその信者さんは檀家である人は少ないと思います)

諸行無常、その信者さんも高齢化の為、年々減少するのは必至です。仏さまもこれら数人の人に崇められるより、へんろ道に戻り、多くの人々から関心を持たれる方が喜ばれるのではないでしょうか?

私は今、民泊の中学生や月に1回無料ガイドをして一般市民の方とへんろトレッキングをしています。近いうちには地元の鏡山小学校にもトレッキングの話をして、情操教育にも活かせないかと考えています。

新鏡山88か所の興隆に尽力があった故日高三嘉氏もどちらの道を望まれるでしょうか。今の事だけを考えるより、将来のことを考え、へんろ道に石仏を戻すことに賛成してくれるのではないでしょうか?(Hさんには、この移動は手を合わせてもらうぐらい感謝されています。)

石仏の意味】
常照院に存在するだけならどこにでもあるただの石仏です。しかしそれが鏡山へんろ道に存在することで価値は一変すると私は思っています。このへんろ道は熊野古道小辺路にある33観音の道にも負けないくらいの素晴らしい道です。この道に当初のままで石仏が存在する事で唐津の歴史遺産になるといっても過言ではないでしょう。

この石仏は一信者さんのものではなく、唐津の歴史遺産だと私は思っています。

最後になりますが、今は5~52番までの整備しか力が及びませんが、これからの活動で唐津市民の皆様のご理解が得られば88か所を復元する夢を持っています。

どうぞ、この熱い思いを受け取っていただき、ご協力、ご理解をお願いします。


  


Posted by あわ美くん at 13:20Comments(0)鏡山へんろトレッキング

2016年06月16日

石仏の移動 1

鏡山へんろ同行会の今年度の最大の事業(作業)石仏の移動を昨日(6月15日)行いました。

現在も昭和初期当時の姿のままで残っているへんろ道(第5番から52番まで)を整備、保全し、トレッキング道として利用してもらうのが整備の大きな目標です。

当初このへんろ道に設置されていた6台の石仏が、信者さんの高齢化等の理由により常照院に移動しています。さらなる信者さんの高齢化が進み、その石仏も忘れ去られたような状況になっています。寺院消滅が社会問題化する中、常照院もその例外ではなく、この石仏群を最低限(第5番~52番)でも保存したいという強い気持ちから今回の移動を計画しました。

なお、これらの石仏の移動に関しては関係者の同意、唐津市の関係部署の許可をとっています。


移動する石仏を一か所に集めました。
1個20kgぐらいと思っていましたが、それが大誤算。30~40kgありました。


衝撃を和らげる梱包シートに1個づつつつみ、軽トラで運搬。


軽トラの通らない道は一輪車で運搬します。このような登坂が予想以上に大変で、ここまでの作業だけで午前中いっぱいかかりました。


今度はへんろ道に降ろすための作業です。こどもが遊ぶ草ソリを使って、重力で滑り落とします。午前中の作業では石仏がソリから滑り落ちてしまいうまく作業がはかどりません。昼食時の休憩にソリを改造しました。


へんろ道まで積み下ろした梱包シートにくるまれた石仏です。
この場所から一番遠い14番から運搬を始めましたが、ここで業者さんたちがギブアップ。腕の筋肉がぱんぱんでこれ以上運べないとのことです。

本日の作業はここまで。梅雨の間の晴れの日を狙って、次回の運搬作業に取り掛かります。

それまで、石仏はこのまま放置。これはバラバラ死体ではありません。トレッキング者の皆さん、しばしご辛抱を。
今月中には石仏の設置作業を終わらせたいと思っています。

鏡山へんろ同行会では、このへんろ道の整備に携わってくださるメンバーを募集しています。  


Posted by あわ美くん at 11:05Comments(0)鏡山へんろトレッキング

2016年05月29日

そして僕は途方に暮れる!



先日、鏡山へんろ道の表示板のいくつかを設置に遍路道を歩きました。
文殊堂(これまで文珠寺と呼んでいた)跡周辺にある第17番から19番のルートは雑草がよく繁り表示板が見えづらくなりそうなので、石段上に新しいルートを作ろうと、朽ち果てた大木を除去した時、この石碑が読める状態となりました。



この石碑の存在は気づいていたのですが、他の2つの石碑が寄付金の寄贈者氏名等の内容だったので、これもその類の石碑だろうと思い、気にかけていませんでした。

苔むした石碑をきれいにすると、新たな事実が判明しました。
書かれていることを判読すると

常吉太郎氏は、昭和2年に唐津新四国第31番札所文殊菩薩を安置し、昭和4年に訪問してくれた野僧に鏡山88か所の悲願を語り、昭和14年文殊堂を建設、仏像53体を新調安置したとある。太平洋戦争により活動を一時中断、昭和20年病床に伏せ22年に他界している。その遺徳を偲び、関係者が意志を継いで昭和26年3月28日(鏡山新四国88か所)御開山式を挙行したと書いてあった。

しかし、昭和2年大聖院発行の唐津四国札所案内図絵(昭和2年発行)によると「鏡山文殊堂あり。・・・・・・山上には常吉太郎氏の創設鏡山八十八ヶ所あり。」と書かれている。

昭和2年の文殊堂は文殊菩薩像を風雨から守った小さな祠のようなもので、設置場所は旧鏡山稲荷神社跡(現在のとにかく岩がある場所)であったことは疑いがない。これまで私が昭和2年の文殊堂と区別するため文珠寺と呼んでいた寺は正式には文殊堂と呼ばれていて昭和14年に建設されたことがわかった。

問題は、昭和2年当時の鏡山四国88か所はどのような形態であったのかということである。今回の石碑の判読により少なくとも完成はしていない、建設途中であったことが窺われる。

昭和14年に仏像53体を新調安置したともある。53体新調したということは、すでに53体以上は既に存在していたと考えられる。そう考えると昭和2年の88か所は現在の石仏より簡素なもので、完全な形態をとっていなかったことが考えられる。

いづれにしろ、これまで昭和初期の鏡山四国88か所については明らかにしたと思っていたが、実はまだよくわかっていないことがわかった。

昭和初期のへんろルートは標高230m付近を鏡山一周していたと思われるが、昭和26年のへんろルートははっきりしていない。
証言者もほとんどいないことから、今後の調査の進展は期待できないが、これまでの資料を整理し、昨年発表した「鏡山遍路考」を「新鏡山遍路考」として再検証したいと考えている。

余談ですが、新事実や新資料が出てこないと、これまでの石碑やパンフレットに書かれている文章の解釈の問題が重要になってきます。文章は難しい。議会答弁を作るとき「ああでもない、こうでもない」一言一句、とてつもないエネルギーと注意を払いますが、今になってその重要さが解ってきました(笑)

そして、僕は途方に暮れる。


  


Posted by あわ美くん at 11:14Comments(0)鏡山へんろトレッキング

2016年05月09日

へんろトレッキング案内板設置

5月4日(2016)に鏡山へんろトレッキング道入口を示す案内板を設置しました。



鏡山神社鳥居の前に一つ目を設置。



この鳥居のある参拝道から左折するとへんろ道入口に行きます。
これで簡単に入口が分かると思います。



4阿月定例化(4/10)の写真です。




5月8日の5月定例会の写真です。
鏡山へんろ同行会では毎月第2日曜にへんろトレッキングを無料でガイドしています。

またGlamping Cafe  3/16では施設利用者を対象にへんろトレッキングサービスをはじめました。
①ショートコース②ロングコース③登山コースの三つのコースから選択できます。
料金は1泊2食付き¥6000、素泊まり¥3000、昼食付き日帰り¥2000です。(要予約)

また、先日までGlamping Cafe 3/16では「がんばれ熊本キャンペーン」を実施していましたが、その義援金を熊本県に寄付しました。






  


Posted by あわ美くん at 14:06Comments(0)鏡山へんろトレッキング

2016年04月18日

売上100%を義援金に!

熊本県を中心に甚大な地震被害がでました。
このような状況の中で自分で何が出来るのか、どんな支援ができるのかを考えました。

Glamping Cafe  3/16は昨日より「がんばれ熊本キャンペーン ~5/5」を実施することにしました。
当店のカフェ営業は予約のない土、日のみでしたが、昨日より5月5日まで毎日営業します。

ただし4月27日から5月1日の間は民泊やその他行事の予定が入っているためカフェ営業はしません。
このキャンペーン期間中の当店の売り上げは全て、義援金として熊本県に寄付します

売り上げがあがればあがるほど、店の赤字が膨らむというこのキャンペーン、せいぜい今の私が応援できることはこれくらいです。

4月26-27日も修学旅行生の民泊予約が入っていたのですが、今日キャンセルになりました。5月はけっこう同様の民泊予約がありましたが、これも雲行きが怪しくなりました。当店の経営もますます苦しくなりそう(苦笑)

毎日の売り上げ、累計売上額はFBページで公表します。
皆さん、Glamping Cafe  3/16でコーヒーを飲んで、熊本を応援しましょう。










本日、唐津から熊本に向けて救援物資が搬送されました。朝7時30分から積み込みがあったので、丁度帰省中の長男と一緒にその手伝いに行ってきました。救援物資が届かないで困っている人が多いようなので、そんな人たちに早く届けばいいですね。

写真は積み出し場所となった栗原木材です。






  


Posted by あわ美くん at 12:02Comments(0)Glamping K 3/16

2016年03月30日

登山コース新設

登山コースを新設しました。
これまでへんろトレッキングにはショートコース、ロングコースがありましたが、新しく健脚者用に登山コースを新設しました。

登山コースは横田部落から文珠寺までのかつて参拝用に利用されていた道です。
今鏡山で残っている唯一の昔(明治時代?)の道です。

それでは、出発しましょう。


スタートは鏡山3/16にあるGlamping Cafe 3/16 。


東方面に歩いて15分程度で横田の石段に着きます。昔は細い道があったようですが、近年の山林道路の整備に伴い、大きな石段になったと思われます。


石段と尾根道を約20分程度登ると、へんろ道の文珠寺跡に到着します。
そこから鏡山頂上につながる急こう配の石段を鎖を頼り、登ります。

鏡山頂上にあるひれふり展望台に到着します。ここで一休憩。
鏡山神社に参拝。


鏡山神社の方向に歩き、いよいよへんろ道に入ります。
ここでトレッキング帳に記帳をお願いします。



約2kmのへんろ道をトレッキング。
前半は起伏のある道で、後半はなだらか道になります。
このへんろ道には第5番から52番までの石仏が鎮座しています。


へんろ道は愛染院の奥の院の裏側にでます。
ここには明治29年に建造された石造の11面観音像があります。


愛染院から遊歩道を歩き、常照院に行きます。
常照院にはその他の石仏が集合しています。
この場所は昭和26年創設の新鏡山八十八か所のスタート地点だったと思われる場所です。


常照院を後にして、西展望台に行きます。
虹の松原と唐津湾の白砂青松の景色を堪能してください。


日本原風景を堪能した後は、鏡山発祥の地とにかく岩を参拝します。
この場所は神功皇后と関係のある由緒ある場所ですが、一般の観光客はほとんど訪れません。
この場所の20m下ると大正時代常吉太郎創設の鏡山へんろの第一番文殊堂跡があります。


佐用姫神社に参拝後虹の階段を使い、出発地のGlamping CafeK 3/16を目指します。
この階段からの眺望も見ごたえがあります。



到着後は、Glamping CafeK 3/16でゆっくりと休憩。
食事(鹿肉のキーマカレー)を食べ、展望抜群の五右衛門風呂に入ることもできます。

こんなトレッキングコースを有料でご案内します。
なんと食事付きで¥2000。採算度外視の企画です。

平日だと1人でもガイドでいますが、週末、祭日は最低3人集まらないと出発しません。
こんな登山コースを考えています。







  


Posted by あわ美くん at 08:51Comments(0)鏡山へんろトレッキング

2016年02月23日

空海の嘘

ちょっとショッキングなタイトルをつけてしまいました。適切な言葉が見当たらず、こんなタイトルをつけました。

これから書くことは、私の私見であり、きちんとした根拠に基づくものではありません。そもそも歴史に書かれていることは、よくわからないことばかりで、よく言われる「言ったもん勝ち」という世界がまかり通っているものなのです。

一番わかりやすい例でいうと「魏志倭人伝」。これは事実と嘘が混在しており、そのため今日でも邪馬台国所在地の近畿説、九州説の論争が続いていることは周知のことです。文献となっているもの中には、時の権力者等の思惑や都合により事実ではなく巧みに虚偽が書かれていることがあります。また、大した根拠もなく書かれている文書が他に比較することができないという理由だけで十分な考察がなされず(考察ができず) 文献として生きている(使われている)事例が多々あるようです。

ちょっと前置きが長くなりましたが結論をいいます。
空海が唐から帰朝する際、朝廷に「御請来目録」を提出し、その中で無断帰朝の理由として「日本に早く帰って密教を広めなさい」という師恵果の遺言のことを書いていますが、これは空海が自分の独断を正当化するための作り話(嘘)なのではないか、ということです。

なぜ、こんなことを思ったかという話を少し。

司馬遼太郎の歴史小説「空海の風景」を読んだとき、ある違和感を覚えました。その違和感とは
①空海はサッカーでいうとJリーグからセリエAやプレミアリーグに行ったようなものです。野球でいうと日本のプロ野球から大リーグへ、そんな状況だったと言えます。唐といえば、当時世界でも有数の大都市、ここで20年間も学べるということは、当初は夢のような出来事だったと思います。また機会があれば仏教発祥の地、釈迦の誕生地インドにも訪れたかったに違いありません。それなのに、在唐わすか2年で独断で帰朝します。

空海は20年間滞在の命令で唐に勉学に来た留学僧です。それを独断で帰朝するということは、当時は「闕期(けつご・けっき)」の罪という死罪にも相当する大罪でした。それに帰りの船旅にしてもとても危険な航海です。入唐にあたっても4舟中2舟しか渡海できず、しかも難破して福建省に漂着したわけですから。そんなことを考えると、空海は帰朝の決断にはかなり悩んだものと覆われます。それなのに小説ではその心の葛藤や心理描写がないので、そのあたりに違和感を覚えたわけです。後で思えば司馬遼太郎の小説は歴史小説というジャンルであり、心理描写をする作家ではないので当然のことなのですが。

②師恵果が「早く日本に帰って、密教を普及しなさい」という遺言にも違和感を覚えました。密教の胎蔵界、金剛界の両部を相承したのは1000人もいたといわれる恵果の弟子の中で空海と義明の二人だけです。義明は体が弱く、長生きはしていません。恵果は密教の正統が代々受け継ぐ8種の法具を空海に授与します。これは空海があと20年間も在唐するから授与したものであり、すぐに日本に帰るなら、空海ではなく義明に与えるはずでは、と思いました。当時の唐は世界最大の都市であり、東国の辺境日本ではなく、唐での密教興隆を願ったのが恵果の自然な気持ちだったと思います。唐の国教は道教であり、かつては唐の皇帝の崇拝も集めた仏教でしたが、この頃には道教に押され、貴族間で信仰されてはいたが、一般民衆の宗教ではなかった。恵果は唐での密教の再起興隆を空海に託したのではないのか、という思いがします。

恵果の遺言とはどういうものなのか、どういう形で後世に伝えられているのか、とても気になっていました。

最近、高村薫著の「空海」という本を読み、自分の頭の中が整理できました。
「日本に早く帰れ密教を広めよ」という恵果のの遺言は空海が自分が唐から持ち帰った経典や仏具等の品々を記録した御請来目録の中で早期帰国した理由を伝える上奏文として書かれていたのです。つまり、恵果の遺言は、目録の中で空海が書いたものだった。

しかも、この本にはこうも書かれていました。
「前後して書かれた恵果の碑文には、恵果入滅の当夜、空海の夢枕に立った恵果が、おまえは早く日本に帰れと空海を急がしたという挿話も記されいる。これも、帰国に向けた入念な布石の一つだったろう。(P63)」と。

恵果の遺言内容は怪しく、遺言自体があったかどうかも疑わしいと思えます。「後のことはよろしく頼む」というぐらいの遺言はあったかもしれないが、「早く日本に帰れ」という遺言は無かったのではないか。「この地で密教をさらに広めてくれ」という遺言なら理解できるが。

帰朝の年の空海の状況を時系列に見てみよう。
805年5月 空海、師恵果と会う
同6月  胎蔵界の灌頂をうける
同7月  金剛界の灌頂をうける
同8月  阿闍梨の灌頂を受ける
同12月15日  恵果入滅
805年12月末または806年1月  遣唐使高階遠成長安に入京
高階遠成に帰国申請(性霊集)「本国の使に与へて共に帰らんと請ふ啓」

驚異的なスピードですべての密教の正統を受けついだ空海は、恐らくこの辺りから帰国のことが少し頭を過り始めたのではないだろうか?
もうこの国に留まるべき理由が空海には無くなっていたからである。空海は人智を超えた大天才である。入唐一年半で、この国の全てを観たのだと思う。

そんな時に唐で張り巡らした空海のアンテナに高階遠成の入唐の情報を得る。今後遣唐使がいつ来るのかもわからない、廃止になるかもわからない。そう思えば、危険を冒しても日本に帰りたいという気持ちがふつふつと沸き起こったのであろう。
恵果の入滅の頃には、空海は帰国を固く決心していた。

だからこそ、恵果の碑文に「日本に早く帰れ」という恵果の遺言を書いた。それは、(創作であり)帰国に向けた入念な布石だった。

ひょっとすると、恵果は日本ではなく「唐で密教を広めよ」と遺言したのかもしれない。仮にそうであるなら、空海は口が裂けてもそれは言うまい。日本に早く帰る理由の後押しとして、師の遺言が必要だったのだ。密教により国を安寧にし、人々を救済したいという大志は空海だけの意思ではなく、師の恵果の意思でもあるのだと強く朝廷に訴えたかったのだと考えれば、私にはすべてが納得がいく。

空海という大天才は、大変な戦略家だと私は思っている。
上陸拒否の窮地を救い、入唐を実現させた四六駢儷体の名文といい、入唐時の行動などをみると相当な戦略家である。
最澄が南都六宗と険悪な状態になったが、空海はうまく回避している。
空海の行動そのものが、入念に計算された類まれなる戦略家だと思わざるを得ない。だからこそ大天才なのだと思う。


どうでしたでしょうか、空海は御請来目録を捏造したという新説は?
信じる者は騙される。まずは何でも疑いましょう。それは大事な人間の基本的な姿勢だと思います。

過ちをするのが人間ですから。

  

Posted by あわ美くん at 16:08Comments(0)注目記事